ヨガモジ303/365 「明」
諦めるの語源は、「明らかにみる」
理想としていた現実は、目の前に無いかもしれない。
しかしどんなに目をこらして見ようとも、無いものは無い。
だから自分の「今」を見定め、受けいれる。
そして、理想は一旦脇において、今自分が出来ることを精一杯やると肚を決める。
諦めるとは、現状を受け止め、進む道を選び覚悟を決めること。
明るい方へ
明るい方へ
ヨガモジ303/365 「明」
諦めるの語源は、「明らかにみる」
理想としていた現実は、目の前に無いかもしれない。
しかしどんなに目をこらして見ようとも、無いものは無い。
だから自分の「今」を見定め、受けいれる。
そして、理想は一旦脇において、今自分が出来ることを精一杯やると肚を決める。
諦めるとは、現状を受け止め、進む道を選び覚悟を決めること。
明るい方へ
明るい方へ
ヨガモジ302/365 「侮」
自分で自分を駄目だと決めてかかり、可能性をなくしてしまうことは、自分で自分を侮辱し害することです。
人を侮辱してはいけないとみんなわかってるのに、なんで自分は侮辱してもいいなんて思うのでしょう?
ヨガモジ301/365 「料」
私たちには一人一人持ち味が違う。
料理とは違うものを掛け合わせて、新しい「美味しい」を生み出すこと。
砂糖と塩と胡椒、どれが一番優れた調味料かなんて誰にもわからないように、誰が優れてるかなんて、誰にも決められない。
好みの問題だからね。
ナンプラーみたいに癖の強い調味料は、嫌いな人は嫌いだけと、好きな人にはめっちゃ好き。
誰かが嫌いだったとしても、別にナンプラーが悪いわけじゃない。
全員に好かれる調味料である必要はないんだ。
誰かしらの美味しいにんればいいんだ。
自分の味を知ることで、相手の味を知ることで、それを掛け合わしたらどんな味になるかを知ることで、どんどん料理上手になっていく。
ヨガモジ300/365 「功」
頭がいい人は、難題を説くことで功を立てる。
力持ちは、力仕事で功を立てる。
口がうまいひとは、説くことで功を立てる。
美しい人は、魅せるで功を立てる。
ひょうきんな人は、場を明るくすることで功を立てる。
その功績に甲乙はない。
それぞれ持っている力で、立派に仕事を成し遂とげる。
ヨガモジ299/365 「捧」
私たちは、自分の立場、願望、好き嫌いなどに執われ日々生活をしています。
捧げるとは、これらに囚われず、条件や理屈抜きで全て行うことです。
捧げる練習をすると、無条件の心が育ちます。
無条件の心になって、はじめてみえてくるもの、受け取れるものがあります。
捧げるという行為は信仰です。
無条件の心を育むために、信仰が必要なのです。
ヨガモジ298/365 「制」
五感は、外の刺激と私たちの心を、繋げる役割をします。
外からの刺激は絶え間なくあります。全て刺激を心の中に入れてていたら、常に心は振り回され、くたびれていきます。
私たちは意識をどこにを向けるか選ぶことで、どの刺激を受けとるかを選ぶことができます。
意識を必要に応じて、五感に繋げたり切り離したりできれば、外からの刺激があっても、それに振り回されない状態にすることができます。
これが、ヨガの八支則にあるプラティヤハーラ(五感と知覚の制御)で練習することです。
その智恵は、神道の祓いの言葉である六根清浄でも伝えられています。
【六根清浄より】
目に諸(もろもろ)の不浄を見て 心に諸の不浄を見ず
耳に諸の不浄を聞きて 心に諸の不浄を聞かず
鼻に諸の不浄を嗅ぎて 心に諸の不浄を嗅がず
口に諸の不浄を言ひて 心に諸の不浄を言わず
身に諸の不浄を触れて 心に諸の不浄を触れず
意に諸の不浄を思ひて 心に諸の不浄を想はず